5.五日目(7月10日(火))、エグ・モルト、カマルグ湿原、ポン・デュ・ガール、ヴィルヌーヴ・レザヴィニュ、サン・ポール・ド・モーゾール修道院、レ・ボー・ド・プロヴァンス
朝食前にテラスからスペインとの国境方向の風景をスケッチ。ピレネー山脈の終端部を背景に、長く伸びる地中海の海岸線と、海岸の砂浜に閉じ込められたようなカネ湖の風景を描いた。
朝食を済ませ出発。D81、D83、A9、D66、D21、D62経由でエグ・モルトへ向かう。途中、地中海沿いに多くの湖が広がっている。
エグ・モルト
カマルグ大湿原の中に築かれた城塞都市。エグ・モルトとは「死んだ水」の意で、町を取り囲むのは淀んだ沼のように見える大湿地帯。1240年、地中海へ直接行き来出来る港を求めていたルイ9世はこの地を譲り受けて港を築き、監視用と都市の往来保護の目的でカルボニエール塔を、兵舎とするためコンスタンス塔を建てた。ルイ9世はここから1242年の第7回十字軍、1270年の第8回十字軍を率いて出発した。1272年、フィリップ3世は城壁の建設を命じ、30年ほどかけて完成した。町は14世紀の半ばまで栄えたが、その後海に繋がる水路に土砂が溜まり、港としての機能を果たせなくなり、町は衰退していった。現在、港だった辺りは塩田となっている。
10時45分、南城壁そばの駐車場に着く。この辺りはかって港のあった所。駐車場そばのロルガノ門⑰には点々と輪が取り付けられていて船を係留するのに用いられていた。その隣の風車の門⑱には17世紀に2基の風車が建てられていた。
城壁に沿って西南隅のブルゴーニュ塔⑯へ行く。ブルゴーニュ塔ではアルマニャック人とブルゴーニュ人の間で闘争のあった1421年にブルゴーニュ人守備隊が謀殺され、流行病を避けるために塩漬けにして収容されたとの言い伝えがある。
西城壁の外は道路、鉄道線路、運河が並んでいる。西城壁のランブレイ門⑭から入ると内西大通りで、左手にはコンスタンス塔、右手にブルゴーニュ塔が見える。右手方向の城壁沿いに進み、ロルガノ門で左折してヴィクトル・ユーゴ通りを進む。
やがて聖王ルイ広場に到る。聖王ルイ広場は町の中心で最も賑やかなところ。周囲には観光案内所やレストランなどが並んでいる。広場の中心には聖王ルイ9世の像④が建っている。ルイ9世は死後列聖されサン・ルイとなったので聖王と呼ばれる。
広場の東北隅、J.ジョウレ通りに面してノートルダム・デ・サブロン教会⑤がある。13世紀建造の建物。ステンドグラスは1991年から現代のクロード・ヴィオラの作品となっている。
教会横のパストウル通りを東に進むと司法官広場に出る。広場の東面には17世紀建築の灰色苦行者礼拝堂㊱が建っている。
広場の西側がガンベック大通りで北側正面にサン・アントワーヌ門㉚が見える。パストウル通りの一つ北側の共和国通りに入って西に向かって進むと、17世紀建築の白色苦行者礼拝堂㉞がある。
共和国通りをさらに進む。民族衣装らしい色鮮やかな衣装の女性が入り口に腰掛けて書き物をしていたりする。J.ジョウレ通りで右折しガデット門⑨から出ると丁度コンスタンス塔の脇を列車が通過するところだった。
旧市街へ戻った所がフランス広場。だだっ広くてちょっと殺風景な印象。正面に統治者の館⑫がある。15世紀に焼失した王の館のあった後に16世紀に建てられたもの。コンスタンス塔へはここから橋を渡って入る。
コンスタンス塔⑩は1242~54年にかけて港の防衛のために建てられた。屋上の塔は灯台として利用されていた。内部は王の住居、時には牢獄などとして利用されていた。屋上から眺めると運河や塩田と塩の山などが見える。
統治者館の方に戻り、北城壁を歩く。ガデット門で振り返るとフランス広場の向こうに統治者館、コンスタンス塔が見えてなかなかなので水彩水彩スケッチはこれを描いた。
ガデット門を過ぎると城壁に民家が迫っている。来た道を戻り西の城壁を歩く。屋根越しにノートルダム・デ・サブロン教会の鐘楼が見える。塔ではなく入り口上部に鐘を並べた形が面白い。3階建ての建物の屋根越しに眺められるのだから城壁の高さに改めて感心する。
12時40分出発。D58、D570経由で東南方向のサント・マリー・ド・ラ・メールまで行き、その後北上してD85、D570、D10、D986経由でポン・デュ・ガールへ向かう。途中は広大なカマルグ湿原で、自然保護地域に指定され、野生の馬や野鳥、フラミンゴなどが生息していると言われる。乗馬体験を楽しむ一団に出くわしたが、自然を観察するには歩いて回るしかないようだ。
ポン・デュ・ガール
古代ローマ時代、50年頃建設の前長52km超の水道橋の記念碑的建造物で世界遺産。カルドン川に架かる橋の長さは建設当初は360mだったが、現在は275m。高さ49m。ユゼスの泉からニームへ直線距離で結ぶには10kmほどのトンネル工事が必要で、経費節約の意味もあって迂回している。水源との高低差は17mでほとんど水平に見えるがこの緩勾配の水路を見事に実現した当時の技術力は大したものだ。石の規格化によって工期短縮を図るなど技術的な工夫が随所にみられる。
14時20分駐車場に着く。水道橋の水路面まで坂道を上る。かっては水路は蓋で覆われていて上を歩けたが、大部分が持ち去られてなくなっている。
水路に続くトンネルは歩いて抜けられるがやめておく。最下層のアーチの上の橋を渡って対岸へ出る。水彩スケッチはこちら側から描いたもの。所々石が突き出ているが保守用の足場を掛けるためだったようだ。保守までよく考えられていることが分かる。水道橋の周辺は公園として整備されていてカヌーなど水遊びに興じる人たちでにぎわっている。
16時出発。D6100、N100経由でヴィルヌーヴ・レザヴィニョンへ向かう。
ヴィルヌーヴ・レザヴィニョン
アヴィニョンのローヌ川向かいにある小さな町。980年頃サンタンドレ修道院が創設され、その麓に集落が形成された。1226年、フランス王軍がアヴィニョンを包囲、アヴィニョンの支配からフランス王の保護下に入った。1292年フィリップ4世と新協定が結ばれ、その後フィリップ美男王塔、サンタンドレ要塞が築かれた。
16時30分、祝福の谷のシャルトルーズ修道院に着く。1352~72年の建造。フランス革命で、修道院はばらばらに売られ重大な損害を被ったが、1909年国が修道院の修復に取り掛かり大部分の改修が終わった状態にある。
女人中庭からヴァルフニエール門を入り、まっすぐ伸びる桑の並木道を通って受付へ行く。入場手続きを済ませ、順路に従って進み、まず教会に入る。隣には教皇イノケンテウス6世霊廟がある。イノケンテウス6世はかって枢機卿として過ごしたヴィルヌーヴ・レザヴィニョンの贅沢な枢機卿邸宅と土地を寄進して修道院を建設させた当人。
教会を出ると小回廊。小さいけれど趣がある。回廊に面した部屋には板を組み合わせた面白いデザインのいすなどいろいろ展示されている。
その先の大回廊をすすんで突き当たって奥まった所に旧洗濯場があり、井戸が残っている。
戻って大回廊をぐるっと回った所にフレスコ画礼拝堂がある。壁や天井にフレスコ画の断片が残っている。
一旦外へ出て次に進むと聖ヨハネ回廊。この回廊が1372年に建設されて修道院は完成した。中庭の中央に水屋があるかなり広い回廊。水彩スケッチはこれを描いた。この回廊から外に出たところにレストラン「夏の庭園」がある。大きな木陰のある気持ちよさそうな空間だった。
修道院を出てフィリップ美男王の塔へ行く。13~14世紀に秀麗な容貌の持ち主で美男王と呼ばれたフィリップ4世によってローヌ川に架かるサン・ベネゼ橋を監視する目的で建設された。王は教皇ボニファティウス8世と対立、憤死させ、後を継いだ教皇クレメンス5世を強制的にアヴィニョンに移した。塔はアヴィニョンを守る要塞として機能しており、戦略的な用地として重要な役割を果たしていた。
エレヴェーターで屋上に出ると、ローヌ川の向こうに法王庁宮殿が間近に見える。北側にはヴィルヌーヴ・レザヴィニョンの町並みの向こうにサンタンドレ要塞とレ・シャルトルーズ修道院が眺められる。
南に向かってD2、D35、D34、D571経由でサン・ポール・ド・モーゾール修道院を目指す。
サン・ポール・ド・モーゾール修道院
サン・レミ・ド・プロヴァンスの郊外にある修道院で、12世紀建造のロマネスク様式の建物。18世紀以降、精神病院として使われていた。188年5月、ゴッホが自ら望んで入院し、制作に励んだことで有名。
17時10分到着。緑豊かなアプローチを進む。ゴッホがここで制作した絵画の複製やゴッホ像が飾られている。
長いアプローチの突き当りに教会と修道院の建物がある。ステンドグラスは現代のものと思われる。
教会の隣が回廊で壁に花かごの彫刻などが施されている。水彩スケッチは鐘楼を背景に回廊の中庭を描いた。
精神病院は現在も100人を超える患者を受け入れており、アート療法、音楽、絵画などのアトリエを有して施設の独特の歴史と建築とを患者の今日的要望と結び付けている。教会参事会の部屋とロマネスク時代の階段には患者の作品が展示されている。階段を上がった上階にはゴッホが収容されていた部屋を再現して展示している。
裏庭はラベンダー畑になっていて丁度花盛り。この庭にもゴッホの作品の複製が飾られている。
D5、D27経由でレ。ボー・ド・プロヴァンスに向かう。
レ・ボー・ド・プロヴァンス
村の名はプロヴァンス語のボー(岩だらけの尾根の意)に由来する。村の歴史は10世紀にボー一族が城塞都市を築き上げたことから始まる。ボー一族は好戦的な性格で知られ、周辺地域の79の村や町を支配していた。最後の女王ジャンヌ1世の死後この地の継承をめぐって争いが繰り広げられたが、最終的にフランス王国へ併合された。その後、モナコ大公に与えられ、現在もレ・ボー侯爵の称号はモナコ大公一族に受け継がれている。「フランスの最も美しい村」認定。
村の入り口の駐車場からレ・ボー城を目指す。土産物屋の並ぶ通りを抜けて登っていく。町並みはよく整備され、家屋の壁に歴史を感じさせる浮彫なども見られる。
坂を上り切った所がレ。ボー城の入り口で、受付で手続きを済ませて入る。模型が展示されていてかっての偉容が偲ばれる。
レ・ボー城は11世紀に建設された。岩の多い地形を利用した半穴居式の城塞が特徴。プロテスタントの牙城となったため、1632年に破壊された。
入り口から入った広場には各種の兵器が陳列されている。衝車は巨大な丸太を城門にぶつけて破るためのものだが、動かす人間を守るため前面に壁と屋根がついている。巨大な岩の上に城壁が築かれ、内側の岩の面には洞窟が穿たれている。これに差し掛け屋根の建物がくっ付いていたようだ。
その先にいく棟かの建物と岩の上の城館があったようだ。その手前に手前の岩の上の城壁へ上がる階段があり、これを上って城壁の先の方へ行く。ここから城址の全体像がほぼつかめる。水彩スケッチはその状況を描いたもの。城館跡の上から眺めると城構えの大きさが分かる。
村の近くの石切場跡にギャラリー「カテドラル・ディマージュ」がある。50台ものプロジェクターで石の壁に巨大な写真が次々と映し出される幻想的なスペースとのことだが時間が遅く見られない。
近くのホテル・ベヴァングドにチェックイン。
(つづく)